霧と馬と大地-北海道と日高の奔流に刻まれた浦河町の歴史
第I部 基盤:北海道の特異な歴史的景観
北海道、日高、そして浦河の歴史を深く理解するためには、まず、この広大な大地が日本本土(本州以南)とは異なる独自の歴史的軌跡を辿ってきたことを認識する必要がある。この特異性こそが、後に日高や浦河で繰り広げられる歴史のあらゆる側面の根底に存在する。
1.1 本土を越えて:縄文からアイヌモシリ(アイヌの世界)へ
北海道の歴史は、旧石器時代、そして約1万5000年前に始まる縄文時代において、日本列島の他の地域と軌を一にして始まった 1。道内各地で発見されている貝塚や環状列石は、この時代に豊かな文化が花開いていたことを示している 2。しかし、約2500年前、本州が米作農業を基盤とする弥生時代へと移行したのに対し、北海道ではその流れに加わることなく、狩猟・漁労・採集を基盤とする「続縄文文化」が展開された 1。この経済基盤の根本的な違いが、その後の北海道の歴史を決定づけることになる。
続縄文文化は、後に本州の文化の影響を受けつつも独自の発展を遂げた「擦文(さつもん)文化」へと継承される 2。擦文文化は、住居形態などに本州の影響が見られるものの、その生活の根幹は依然として非農耕であった 2。同時期、5世紀から13世紀にかけて、オホーツク海沿岸にはサハリン方面から渡来した人々による、高度な海洋漁労技術を持つ「オホーツク文化」が栄えた 1。これらの多様な文化が交錯し、融合・変容を遂げる中で、12世紀から13世紀頃には、現代に繋がる「アイヌ文化」が形成されたのである 2。
この歴史的背景から導かれる重要な点は、北海道における狩猟・漁労・採集経済の持続が、単なる「未発達」を意味するものではないということである。むしろ、それは米作に適さない冷涼な気候への高度な適応戦略であった。この経済基盤の違いは、土地や資源に対する考え方においても、本州の和人とは全く異なる世界観を生み出した。和人社会が土地の「所有」と余剰価値の生産を追求したのに対し、アイヌ社会では「イオル」と呼ばれる伝統的な生活圏内での持続可能な資源利用が重視された。後に起こる和人との深刻な対立は、単なる民族間の争いではなく、この二つの相容れない社会経済システムの衝突という側面を色濃く持っていたのである。
1.2 和人の到来と松前藩の興隆
和人による北海道への関与が公式な記録に現れるのは、7世紀の『日本書紀』に記された阿倍比羅夫の遠征である 2。その後、12世紀頃から和人が道南の渡島半島に移り住み始め、やがて「道南十二館」と呼ばれる館(城砦)を築いて勢力を拡大した 2。和人の進出は、先住のアイヌとの間に摩擦を生み、1457年には大規模なアイヌの蜂起である「コシャマインの戦い」が勃発する 2。
この戦いでアイヌを制圧した武田信広の子孫が、後に「松前氏」となり、徳川幕府から蝦夷地(当時の北海道の呼称)におけるアイヌとの独占的交易権を公認される 5。こうして日本最北の藩、松前藩が誕生した。松前藩は、道南を拠点とし、北海道各地の沿岸部に「場所」または「商場(あきないば)」と呼ばれる交易拠点を設けて、アイヌとの交易を支配した 7。
松前藩の支配体制は、極めて特異な構造を持っていた。日本の他の大名が米の生産量(石高)を富と権力の基盤としたのに対し、松前藩は石高を持たず、アイヌとの交易から得られる産物(毛皮、干し魚、昆布など)がその経済の全てであった 7。これは、藩の存立がアイヌの労働力とアイヌモシリの資源に完全に依存していることを意味した。この経済的依存関係ゆえに、松前藩はアイヌを殲滅することはできず、むしろ彼らを巧みに支配・搾取する必要があった 7。その結果、藩はアイヌの各集団を対立させ、不平等な交易レートを押し付けることで優位性を保とうとする、計算された搾取の構造を築き上げた。この脆弱で本質的に不安定な権力構造が、やがて日高地方を舞台とする史上最大規模の衝突へと繋がっていくのである。
時代区分
北海道全域の動向
日高地方の動向
浦河地方の動向
縄文・続縄文・擦文時代
狩猟・漁労・採集を基盤とする独自の文化が発展 4。続縄文、擦文文化が全道に広がる 2。
豊かな河川と沿岸資源に恵まれ、大規模な集落(コタン)が形成される。
浦河町内の遺跡から各時代の土器・石器が出土 8。
中世(12~16世紀)
道南に和人が進出し「道南十二館」を形成 2。コシャマインの戦い(1457年)を経て、松前氏が台頭 2。
シベチャリ(現・新ひだか町静内)などを拠点とする有力なアイヌ首長層が勢力を保持。
アイヌ語地名「ウララペツ」(霧深い川)として認識される 9。
近世(17~19世紀中頃)
松前藩がアイヌとの交易を独占 5。場所請負制が確立し、アイヌへの経済的支配が強化される 6。
シャクシャインの戦い(1669年)の主戦場となる 11。戦後、松前藩の支配が浸透。
元浦川河口付近に「浦川場所(会所)」が設置され、交易の拠点となる 12。
近代(明治以降)
明治2年(1869年)、開拓使設置。本格的な開拓と和人の大量移住が始まる 4。
開拓使により新冠牧場が開設(1872年)され、馬産地としての歴史が始まる 14。
明治5年(1872年)、浦河支庁設置。日高地方の行政・経済の中心地となる 12。
表1:北海道・日高・浦河の比較歴史年表
第II部 日高のるつぼ:シャクシャインの戦いとその余波
明治以前の日高地方の歴史において、1669年に勃発した「シャクシャインの戦い」ほど決定的かつ広範な影響を及ぼした事件はない。この戦いは、その複雑な原因と、アイヌと和人の関係を根底から変えてしまったという点で、近代に至る日高、ひいては北海道全体の歴史を理解する上で不可欠な鍵となる。
2.1 対立の萌芽:資源競争と和人の搾取
17世紀、日高地方における緊張は着実に高まっていた。松前藩の支配下で活動する和人商人たちは、アイヌに対して著しく不公正な交易条件を押し付けていた 2。さらに、和人による砂金採取活動は河川を汚染し、アイヌの主食であった鮭の遡上を妨げるなど、生活環境を深刻に脅かした 7。
こうした人為的な環境破壊に加え、自然災害も追い打ちをかけた。1663年の有珠山、1667年の樽前山と、大規模な火山噴火が相次ぎ、大量の火山灰が降り注いだことで、生態系は大きな打撃を受け、鮭の不漁はさらに深刻化した 17。このような状況下で、資源を巡る争いは激化の一途をたどる。
戦いの直接的な引き金は、シベチャリ川(現・新ひだか町の静内川)流域の漁猟権(イオル)を巡る、アイヌ内部の対立であった。シャクシャインが率いる日高東部のアイヌ集団「メナシクル」と、オニビシが率いる西部の集団「シュムクル」との間で、かねてより続いていた領域争いが、この資源枯渇の時代にあって、ついに武力衝突へと発展したのである 11。この日高の一地方における内紛が、やがて全道的な戦乱の導火線となった。この戦いの背景には、単一の原因ではなく、和人による経済的搾取、人為的・自然的な環境悪化、そしてアイヌ内部の政治的対立という三つの要因が複雑に絡み合っていた。環境の悪化が資源の希少性を高め、それがアイヌ間の領土紛争を先鋭化させる一方で、和人からの経済的圧迫がアイヌ全体の不満を増大させていた。この複合的な危機こそが、シャクシャインの戦いの本質を物語っている。
2.2 1669年の蜂起:地域戦争から汎アイヌ的次元へ
アイヌ内部の抗争はエスカレートし、劣勢に立たされたシュムクルのオニビシはメナシクルのシャクシャインに討たれる。その後、シュムクル側は松前藩に武器の援助を求めるが、その使者が帰路で謎の死を遂げた。この死は「松前藩による毒殺」であるとの噂が広まり、アイヌの対和人感情は決定的に悪化した 16。
シャクシャインはこの機を逃さなかった。彼は、この事件を巧みに利用し、それまでのアイヌ内部の対立を、和人に対する全アイヌの生存をかけた闘争へと昇華させたのである 21。彼は広範な同盟を結び、蜂起は日高から東蝦夷地、さらには西蝦夷地の一部にまで拡大。各地で和人の商船や交易拠点が襲撃された 11。戦いの主戦線は西部に移り、アイヌ軍は現在の長万部町にある国縫川まで進軍し、松前藩軍と激しい戦闘を繰り広げた 16。
初期の成功にもかかわらず、鉄砲などの優れた武器と組織力を持つ松前藩軍が次第に優勢となる。戦いが膠着状態に陥る中、松前藩は和睦を提案。シャクシャインはこれを受け入れ、ピポク(現在の新冠町)で開かれた和平の酒宴に出席したが、そこでだまし討ちに遭い、殺害された 17。指導者を失ったアイヌ軍は総崩れとなり、戦いは終結した。
シャクシャインが地域の対立を広範な抵抗運動へと転換させた政治的手腕は注目に値する。しかし、この蜂起を、統一されたアイヌ「民族」による国民国家的な抵抗と見なすのは正確ではない 23。それは共通の敵に対する戦略的かつ一時的な同盟であり、その脆弱さが敗因の一つともなった。そして、和睦の席での暗殺という結末は、松前藩がアイヌを対等な交渉相手ではなく、力で鎮圧すべき反乱者としか見ていなかったことを冷徹に示している。この裏切り行為は、アイヌと和人の間に残っていたわずかな信頼関係をも打ち砕き、以降の関係を純粋な武力支配に基づくものへと変質させたのである。
2.3 戦後の秩序:「場所請負制」と和人の支配
シャクシャインの戦いに敗れたアイヌは、松前藩への絶対的な服従を強いられることになった 16。松前藩は、この勝利を機に支配体制を一層強化し、「場所請負制(ばしょうけおいせい)」と呼ばれる新たな制度を全道に確立した 6。
この制度の下では、特定の地域(場所)における交易権が、藩から和人商人(場所請負人)へ入札によって貸し出された。これにより、請負人となった商人は、担当する場所内で絶対的な権力を持つに至った。彼らはアイヌを単なる交易相手としてではなく、自らの漁場などで働かせる安価な労働力として酷使した。交易レートは極めて搾取的なものとなり、多くのアイヌが労働の対価として与えられるわずかな米や酒のために負債を抱え、事実上の債務奴隷状態に陥った 6。
この場所請負制は、明治維新まで続くアイヌと和人の関係を規定する基本構造となった。それは、松前藩が搾取という統治の直接的な実行を民間の商人に「アウトソーシング」する、いわば民営化された植民地主義であった。藩は利益を享受する一方で、直接的な支配の責任からは距離を置くことができた。このシステムは、アイヌの伝統的な生活サイクルを破壊し、首長(コタンコロクル)の権威を失墜させ、経済的な自立を奪い去った。シャクシャインの敗北の上に築かれたこの場所請負制は、アイヌ社会の政治的・経済的自律性を完全に破壊し、続く明治政府による、より直接的な同化政策への道を開くことになったのである。
第III部 浦河の形成:アイヌのコタンから明治の開拓拠点へ
この章では、視点を浦河町そのものに絞り、その地名の由来から、明治維新という巨大な変革の中で、いかにしてアイヌの集落から近代的な開拓拠点へと変貌を遂げたのかを追う。この変遷は、北海道開発という国家プロジェクトが、一つの地域にどのように具現化されたかを示す縮図である。
3.1 地名の由来:「霧深い川」と中心地の移動
「浦河」という地名は、アイヌ語の「ウララペツ(urar-pet)」または「ウララペッ(urara-pet)」に由来し、「霧の深い川」を意味するとされる 9。しかし、歴史的にこの名が指していたのは、現在の浦河市街地ではなかった。
本来の「ウラカワ」は、現在の荻伏地区を流れる元浦川の河口一帯を指す地名であり、江戸時代には松前藩の交易拠点である「浦川場所(会所)」がこの地に置かれていた 12。一方、現在の市街地にあたる場所は、アイヌ語で「ポンナイ(pon-nay)」、すなわち「小さい川」と呼ばれていた地域である 26。
幕府の直轄時代に、この浦川場所の機能がポンナイの地に移されたことにより、地名もまた移動した。その結果、ポンナイが「浦河」と呼ばれるようになり、本来の場所は「元浦川(もとうらかわ)」として区別されるようになった 13。この「浦川」の名は、『元禄御国絵図』といった江戸時代の地図にも既に記載されており、古くからの要衝であったことがうかがえる 9。
この地名の移動は、単なる行政上の都合以上の意味を持つ。それは、権力構造の転換を物理的に象徴する出来事であった。元浦川の旧場所は、鮭漁や交通の要衝といった、アイヌ社会における重要性から選ばれた場所であった可能性が高い。それに対し、明治政府が新たな中心地としてポンナイを選んだのは、既存の交易拠点を利用するのではなく、計画的な行政都市を建設するという明確な意図の表れであった。地名を新たな中心地へと「移植」する行為は、先住民族が築いた土地の記憶を、近代日本の行政的な秩序で上書きするという、巧妙かつ強力な植民地化のプロセスそのものであったと言える。
3.2 新時代の幕開け:開拓使と行政の中心地
1868年の明治維新を経て、新政府は北海道の本格的な統治に乗り出す。1869年(明治2年)には「開拓使」が設置され、場所請負制は廃止、北海道の組織的な開発が国家プロジェクトとして始動した 4。
浦河は、その地理的条件と江戸時代からの交易拠点としての歴史から、日高地方における新たな行政の中心地として選ばれた。そして1872年(明治5年)、この地に「開拓使浦河支庁」が設置される 12。これは、浦河の近代史における最も決定的な出来事であった。この日を境に、浦河は日高地方の行政、経済、そして文化の中核を担うこととなる。支庁の設置に伴い、郵便局、裁判所、警察署といった近代国家の統治機関が次々と開設され、それに伴って多くの和人官吏や商人が移り住み、資本が集積した 12。
浦河支庁の設置は、浦河を松前藩体制下の辺境の一交易拠点から、中央集権化された近代日本の植民地経営における一線基地へと変貌させた。以降の浦河の発展、すなわち大規模な移民の受け入れ、港湾の建設、種馬牧場の設置といった全ての近代化事業は、この地に集中した行政権力によって主導され、可能となったものである。1872年のこの決定が、他の沿岸の町とは一線を画す、浦河のその後の発展の軌道を決定づけたのである。
3.3 遠来の開拓者たち:九州移民と赤心社の理想
開拓使による北海道開発計画の根幹をなしたのは、日本本土からの大量移民であった。浦河地方への組織的な移民の第一陣は、1871年(明治4年)に到着した。肥前国(長崎県)から24戸74人が西舎(にしちゃ)村へ、肥後国天草郡(熊本県)から21戸95人が杵臼(きねうす)村へと入植した 12。彼らは、新天地に土地を求める農民たちであった。
これとは別に、より理想主義的な動機を持つ開拓団も浦河を目指した。旧三田藩(兵庫県)の士族らによって結成された開拓結社「赤心社(せきしんしゃ)」である 27。1881年(明治14年)、鈴木清に率いられた第一陣50名が西舎に入植するも、厳しい気候風土と病気に屈し、開拓は失敗に終わる 27。
しかし翌1882年(明治15年)、福沢諭吉門下のクリスチャンであった澤茂吉を団長とする第二陣80余名が荻伏に入植。彼らは、冷害や虫害といった筆舌に尽くしがたい辛苦を乗り越え、ついに開拓を軌道に乗せることに成功した 27。この赤心社の成功は、単なる不屈の精神だけでなく、キリスト教信仰に根差した強固な共同体意識と、現実的なリーダーシップの賜物であったと考えられる。荻伏に現存する赤心社の旧事務所は、こうした開拓結社の建物として唯一残る貴重な遺構であり、北海道開拓の困難と理想を今に伝えている 8。
浦河の開拓史は、このように多様な人々の物語によって織りなされている。それは、土地を求めた農民と、新しい社会の建設を夢見た旧士族という、異なる階層と動機を持つ人々が、等しく未開の地で過酷な自然と対峙した記録である。赤心社の第一陣の失敗と第二陣の成功の対比は、北海道開拓という事業が、英雄的な精神論だけでは成し遂げられず、指導者の資質、共同体の結束、そして現実的な適応力といった、より複雑な要因に左右されたことを雄弁に物語っている。
第IV部 近代浦河の双璧:馬と海
浦河の近代経済と地域としてのアイデンティティは、一世紀以上にわたり、「馬」と「海」という二つの産業によって形成されてきた。この章では、国家政策と地域の営みが一体となり、いかにしてこの町が「優駿の郷」として、また重要な漁業港として発展してきたのかを詳述する。
4.1 港:太平洋への玄関口
4.1.1 自然の良港から近代港湾へ:一世紀にわたる整備
浦河の沿岸は、沖合の岩礁によって波が和らげられる天然の良港であり、江戸時代から港として利用されてきた 25。近代的な港湾を建設することは、明治時代からの地域の悲願であった。測量は明治期に行われたものの、本格的な修築事業に着手したのは1921年(大正10年)のことである 25。
戦後、1953年(昭和28年)に浦河港は「地方港湾」に指定され、浦河町自らが港湾管理者となった 30。その後も整備は続き、1978年(昭和53年)には臨海部の埋立造成工事が着工 31。2001年(平成13年)には港湾へのアクセスを向上させる臨港道路が完成した 30。こうした長年にわたる投資の結果、浦河港は日高地方の港としては最大級の水深7.5メートルの岸壁を備えるに至り、2006年(平成18年)には初の外航船が、2019年(令和元年)には大型クルーズ客船「ぱしふぃっくびいなす」が入港するなど、その能力を証明している 30。
4.1.2 経済の原動力:昆布、漁業、そして地域物流
浦河港は、町の経済を支える心臓部である。日高沿岸の豊かな漁場を背景に、古くから漁業の拠点として栄えてきた。特に、江戸時代から重要な産品であった昆布漁は、今なお町の主要産業の一つである 12。全国的に名高い「日高昆布」は、この港から各地へ送り出される 33。
また、浦河港は地域の物流拠点としての役割も担う。その代表例が、隣町の様似町で産出される製鉄用の副原料「かんらん岩」の本州への移出であり、日本の基幹産業を支える一端を担っている 30。イカ漁の最盛期には、全国から多くの漁船が寄港し、港は活気に満ち溢れる 30。1935年(昭和10年)の日高本線の開通と並行して進められた港湾整備は、20世紀における浦河の発展を牽引した最大の要因であった 25。
浦河港の発展史は、公共投資と民間事業、そして伝統産業と近代産業が見事に融合した軌跡を示している。一世紀に及ぶ国や町の投資によって整備された港湾インフラが、昆布漁のような歴史ある産業を支える一方で、かんらん岩の移出のような新たな経済活動を可能にした。この港は、浦河の地域資源(水産物、鉱物)と産業(漁業、鉱業)を、日本全国、さらには世界の経済網へと結びつける物理的なプラットフォームなのである。その整備なくして、20世紀の浦河の繁栄はあり得なかった。
4.2 馬:優駿の郷の創造
4.2.1 軍馬から競走馬へ:日高種馬牧場の役割
日高地方における馬産の歴史は、明治政府によるトップダウンの国家戦略として始まった。その原点は、1872年(明治5年)に開拓使がアメリカ人顧問エドウィン・ダンの指導のもと、新冠に開設した官営牧場である 14。当初の目的は、在来馬を西洋の品種と交配させ、農業や軍事に適した強健な馬を生産することであった。
この国策は、浦河において1907年(明治40年)の「日高種馬牧場」の設置によって、より明確な形で根付くこととなる 12。この牧場は、軍馬の改良と生産を主目的として設立され、第二次世界大戦終結までその役割を果たした。
戦後、日本の馬産業は大きな転換点を迎える。軍事需要が消滅し、GHQの政策によって本州にあった下総御料牧場や小岩井農場といった有力な馬産地がサラブレッド生産を停止させられた 14。この歴史の偶然が、日高地方に千載一遇の好機をもたらした。戦前から軍馬生産で培われてきた広大な牧草地、飼育技術、そして人材という既存のインフラを、サラブレッド競走馬の生産へと振り向けたのである。戦後の競馬ブームの到来も相まって、日高地方はまたたく間に日本一の競走馬産地へと変貌を遂げた 6。
4.2.2 馬の文化:シンザン、祭り、そして共有されるアイデンティティ
浦河にとって馬産業は、単なる経済活動以上の意味を持つ。それは、町の文化そのものであり、地域としての誇りの源泉である。その象徴が、日本競馬史上初の五冠を達成した伝説の名馬「シンザン」である 27。浦河の谷川牧場で余生を送ったシンザンの功績を称える像は、今も多くのファンが訪れる聖地となっている 36。
町はこの「優駿の郷」としてのアイデンティティを、毎年夏に開催される「うらかわ馬フェスタ」や「シンザンフェスティバル」を通じて祝い、次世代へと継承している。ミス・シンザンコンテスト、サラブレッドの馬上結婚式、ホースショーなど、馬と触れ合う多彩なイベントが繰り広げられる 22。JRA日高育成牧場は、研究開発や若馬の育成といった中核的な役割を担うだけでなく、こうした地域貢献活動にも積極的に関与し、馬文化の普及に努めている 40。馬産は、牧場での直接雇用はもちろん、獣医、装蹄師、輸送、飼料といった関連産業全体で巨大な経済圏を形成しており、浦河の社会に深く根を下ろしている 41。
浦河の「優駿の郷」としてのアイデンティティは、歴史的適応の輝かしい成功例である。帝国日本の軍事的野心によって創出された産業が、戦後の歴史の偶然と地域の企業家精神によって、世界に通用する民間主導の高級品(サラブレッド)市場へと生まれ変わった。そして、シンザンのような英雄の物語や、地域ぐるみの祭りといった豊かな「馬文化」を創造することで、経済活動を地域社会の共有財産へと昇華させた。この経済と文化の相互補完関係こそが、今日の浦河を支える強力な基盤となっているのである。
第V部 自然との試練:1982年浦河沖地震とその遺産
浦河の歴史は、人間の営みだけでなく、時に牙を剥く自然との闘いの記録でもある。特に1982年の浦河沖地震は、町に甚大な被害をもたらしただけでなく、その後の浦河の共同体意識と防災文化を根底から形作った、画期的な出来事であった。
5.1 地が揺れた日:M7.1の地震の記録
1982年(昭和57年)3月21日午前11時32分、浦河町の南西沖約20km、深さ約40kmを震源とするマグニチュード7.1の地震が発生した 43。浦河町では、北海道では1952年の十勝沖地震以来となる「震度6(烈震)」を記録 43。揺れは北海道全域と東北地方北部にまで及んだ。
地震発生後、気象庁は津波警報を発表。浦河では最大で高さ80cmの津波が観測されたが、幸いにも津波による大きな被害はなかった 44。この地震は、本震に先立つ前震活動と、その後の活発な余震活動を伴うものであった 44。
5.2 地震直後:被害の評価と地域社会の対応
被害は浦河町とその周辺地域に集中した。死者は一人も出なかったものの、167名が重軽傷を負った 43。ブロック塀や自動販売機は倒壊し、電柱は傾き、商店街の建物の壁は剥がれ落ち、窓ガラスは砕け散った 43。特に軟弱な地盤の地域で家屋の被害が大きく、全壊13棟、半壊28棟、一部損壊675棟という甚大な被害が出た 43。港湾施設などを含めた経済的被害総額は、約100億円に達したとされている 46。
項目
詳細
発生日時
1982年(昭和57年)3月21日 午前11時32分
地震の規模
マグニチュード 7.1
最大震度
震度6(浦河町)
人的被害
負傷者 167名、死者 0名
家屋被害
全壊 13棟、半壊 28棟、一部損壊 675棟
経済的被害
約100億円
表2:1982年浦河沖地震の被害概要 43
この惨禍の中で、特筆すべきは、昼食の準備などで火気の使用が多い時間帯であったにもかかわらず、火災が一件も発生しなかったことである 46。これは、住民一人ひとりの高い防災意識と、当時普及していた石油ストーブの対震自動消火装置の効果によるものと考えられており、浦河の地域社会の強靭さを示す象徴的な事実となった。
5.3 防災文化の醸成:災害が変えた浦河の強靭性
1982年の地震は、浦河の地域社会に消えることのない記憶を刻み、それを教訓とした強固な「防災文化」を育む触媒となった 47。その文化は、**「とおちゃん戸を開け、かあちゃん火の始末、子どもは机の下」**という、世代から世代へと語り継がれる具体的な行動指針となって、地域に根付いている 47。
この防災文化は、単なる過去の伝承にとどまらない。それは、新たな知見を取り入れながら進化し続ける、生きた教訓である。その好例が、地域の精神障害者当事者グループ「べてるの家」の取り組みに見られる。彼らは1982年の経験と、2011年の東日本大震災で明らかになった津波の脅威という新たな知見を組み合わせ、独自の避難計画を策定した。津波が到達するまでの4分以内に高台へ避難する訓練を繰り返し、地震の恐怖で避難を妨げる幻聴が聞こえた際にどう対処するかといった、極めて具体的で当事者の現実に即した対策まで編み出したのである 48。
1982年の地震は、浦河の危機との向き合い方を決定的に変えた。それは、防災を単なる行政の計画書から、地域社会の文化、そして住民一人ひとりの身体化された知恵へと昇華させた。火災ゼロという成功体験は、その後の自信とさらなる備えへの動機付けとなった。この災害の最も重要な遺産は、コミュニティが主体となって学び、適応し続ける能力そのものである。浦河沖地震は、もはや単なる過去の災害ではなく、町の未来を守るための、今なお参照され続ける生きた教科書なのである。
第VI部 総合と展望:21世紀の浦河
これまでの歴史的経緯を統合し、浦河という町の現代的アイデンティティを定義するとともに、その特異な歴史的遺産が未来にどのような可能性を拓くのかを考察する。
6.1 歴史の糸を紡ぐ:浦河の重層的アイデンティティの総合
浦河の現代におけるアイデンティティは、幾重にも織り重ねられた歴史のタペストリーである。その基層には、霧深い川のほとりに築かれたアイヌのランドスケープがある。それは、和人との対立と植民地化によって大きく書き換えられた。近代の浦河は、日本各地から集った開拓者たちの手による明治の開拓事業によってその骨格が築かれた。その経済は、伝統漁業と近代物流を支える**海(港)と、国家事業から世界的なブランドへと進化した陸(馬)**という、二つの柱によって支えられてきた。そして、その共同体精神は、1982年の大地震という試練の中で鍛えられ、他に類を見ない強靭さを獲得した。
浦河町立郷土博物館や赤心社記念館といった施設は、この複雑で多層的な物語を公式に記憶し、後世に伝える役割を担っている 8。
6.2 現代の姿と未来への展望
浦河の現代の産業構造は、その歴史を色濃く反映している。2020年の国勢調査によると、農業・漁業・馬産を含む第一次産業の就業者数が1,637人であるのに対し、行政やサービス業を含む第三次産業の就業者数は4,045人と、これを大きく上回る。第二次産業は726人にとどまる 52。この構造は、第一次産業の重要性が依然として高い一方で、浦河が明治以来、日高地方の行政・サービスの中核であり続けてきたことを示している。
産業分類
就業者数(人)
構成比
第一次産業
1,637
25.5%
第二次産業
726
11.3%
第三次産業
4,045
63.1%
合計
6,408
100.0%
表3:浦河町の産業別就業者数(2020年) 52
未来に向けて、浦河は日本の多くの地方都市が直面する人口減少や高齢化といった課題と無縁ではない。しかし、この町が持つ歴史的資産は、独自の発展の可能性を秘めている。「優駿の郷」というブランドは、観光における強力な魅力である。隣接する様似町にある「アポイ岳ジオパーク」はユネスコ世界ジオパークに認定されており、これと連携したエコツーリズムやジオツーリズムの展開も期待される 32。アイヌ文化や開拓の歴史を伝える取り組みは、文化観光の資源となる。
浦河の歴史は、適応と転換の連続であった。アイヌのコタンから松前藩の場所に、場所から明治の行政中心地に、そして軍馬生産拠点からサラブレッドの一大産地へ。この町がこれまで幾度となく見せてきた変身能力こそが、最大の強みである。浦河の未来は、そのユニークな歴史的・文化的資本をいかに活用し、観光、文化遺産、そして独自の生活の質を核とした新たな経済モデルを構築できるかにかかっている。それは、20世紀の産業基盤を超えて、自らの物語そのものを未来への資産へと転換していく、次なるピボットの挑戦となるだろう。